関係性の終わりについて

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 万物は流転するらしい。

思えば、去年の凍えるような寒さの中スーツに腕を通しもういちどはたらきはじめた。吹きすさぶ風に舞い散った桜と出会いも吹き抜けて、茹でタコになるのかってくらい暑かった熱帯夜も冷たいビールでやり過ごし、しとしとと降る小夜時雨を枕に夜長を過ごしていたら、気がつけばまたコートを羽織るほどに肌寒くなっていた。

そして除夜の鐘が鳴り響いた束の間に、新年も半月ばかりが過ぎている。

そう、確かに季節は巡っていた。

 

なんだかんだで働きはじめてちょうど1年、気持ちとしてはようやったなって思う。

振り返ってみて、心残りがあるかと言われれば、不思議なことにそれはない。

その時々にこれしかないって思える決断をときには怯えて、ためらいながらも

逃げたりはせずに向き合った。

けれども、人生ってそれで結果がともなうわけでもないんだね。

だから、いくつか切ない思いをすることもあった。

残ったいくつかの切なさのほかになにを得たかと言われたら、

個人的に大きな収穫は、内なる声のヒアリングがうまくなってきたことかな。

ということで、取りとめもない。2018年抽象ダイジェストでしたが、

今年もやっていきます。へい。 

 

年末のシグナルについて

年を取るごとにそれぞれの季節のイベントが薄れゆく。

小学生の頃にはあれだけ待ち遠しかった夏休みも働き始めればその長さも短く、

結局のところスーツが汗ばむだけのげんなりする季節へと変化する。

心待ちにしていたサンタクロースの季節も今では赤い服を着た人の真実の姿に気がつき、彩られる街々にも資本主義の匂いを感じるようにもなっている。

年を経るごとにライフイベントをこなす毎にものの感じ方は変わってくる。

けれどもどうしてだが年末の感覚だけはいつまでも変わらない。

年末は師走の半ば頃からクリスマスのムードの影に隠れて少しづつ準備を整えている。

彼らは姿を中々には見せない時折、納期、忘年会、カレンダーなんかに時折尻尾を出しはすれども表だっては姿を見せないしそれに年末がちらついても帰路についてしまえば街々のイルミネーションがそびえたつツリーの装飾があまねく街々を光で照らしその華やかさなムードでそれをかき消してしまう。

イブの終わりに差しかかる頃なると年末感は待ってましたとばかりに顔を出す。

街の所々に謹賀新年のポスターがオフィス街の自動ドアの傍らには、

「前からいましたよ?」と言わんばかりの顔をした門松がいつの間にか置かれている。

そして売れ残ったチキンが半額になり始める頃には、

もうクリスマスは過去のものになって街は年末の空気に包まれている。

「ああ今年も一年が終わるんだ」

始まりのシグナルであるはずの正月道具に感じる終わりのシグナル。

物語の季節が終わりを告げてしまって僕らに共通なものなんて始まりと終わり、

とりわけこの終わる瀬戸際を振り返ることぐらいなんだろうなと思う。

この感覚だけは幼少期の頃と何も変わりがない。

商店街の門松の上に乱雑に乗せられた役目を終えたサンタ帽を横目にみる。

年々加速してゆくこの年末の中でもう残り少ない日数を指折り数えながら

終わりを迎えつつある今年という季節に想いを馳せたりしていた。

 

アフィサイトつくるお

「人は土を離れては生きてはいけない」と言ったのは宮崎駿のシータでした。

当時僕は「だよなあ」と思ったけれども、

風来坊(無職、ニート)になった今となってはこう言えます。

人は金がないと生きてけねえんだよ!!!!!!!

とひしひしと感じております。

思うにニートパラドックスとしてあるのは、

「金がない→行動できない→死」

のプロセスです。悲しい。ならなにかやってみるか?

と思い立ったのが、アフィサイトです。本当はアダルトサイトを作成したかったのだけれども、

 

借りた「お名前ドットコム」がアダルトアフィ禁止だったのでなくなく他のを考えております。

 

これからどうしましょうか…

 

生活=生きる活動

無限に寝られるようになった無職は無限に寝てはいけないのである。

byじぶん

名言風の書き出しをしてみたかったのだ。

子供の頃に、歯を磨きなさいとか早く寝なさいとか挨拶をしなさいとか結構よく言われてそのたびに「うっせーな」と思っていたのだけども、いざ無職(風来坊です)になってみると、この大切さがよくわかった。

この習慣はもちろん学校、会社だったりつまりは外的な制約がある時も勿論大事なんだけれども、無職化(何の制約もなくなった時)すると、それが社会的ではなく己自身が人間的であるために非常に大切になってくるんだと思う。

一応、現在人類には時間なる客観的な指標があって、例えばそれは一年、一ヶ月、一週間、一日、二十四時間etcがあるんだけれども、そこには個別の意味は伴っていなくて、以前としてのっぺりとした膨大な塊なわけです。

想像してみてほしいのだけれど、全裸で草原に投げ出されたとして。ほんと途方に暮れちゃいませんか?

これに対処するためには最低限24時間という膨大な塊を少なくとも部分部分で分けることが出来るのが要は「生活」なわけです。

 

生活:歯を磨く、シャワーを浴びる、寝る、料理をする、食事をする、走る…etc

 

すごく当たり前のことかもしれれないけれど逆説的に生活があるからこそ人間になるといいますが、シェアハウスに来た当初は結構寝てばかりで、苦しい感じだったんだけど。そんな風にダメになっていく自分をぼーっと観察しながら色々と思っていたわけです。要は生活的考え無しに寝ることはいわば擬似的な死なわけで、そりゃ苦しいよねって

「生活」って「存在」みたいな用語めいてるけど改めて考え直すと

要は「生きる活動」なんですよね。はんぱねえ。

 

ここまで言っといて何ですけど、やっぱり無限に寝たい時があると言えばあるので寝ます笑

まあその時は仕方ない。でもそういう気分の時って何か肉体的、心理的問題があることがほとんどだよね。

GWが終わった

終わってみればあっというまのGW

労働をしていた時はとても尊いものであったけれども

無職となればあまり意味がない、なぜならば

人が増えるし何かとさまざまなアクティビティの価格もこれに乗じて

高くなってしまうからです。うぅ~つらい。

キングオブつらい。

ちんたら無職して4月が終わったので、そろそろ色々計画して始動してゆこうと

思う。

ブログ書くぞ~修行するぞ!のリズムで~

おれはブログ書くぞ!

と宣言したのでこりゃ書かなきゃ格好つかないよね。。。

と思ったので、適当に書いてゆきます。

けれども、無職*1って特に書くこと無いんですよね。(いきなりの言い訳)

とか思いつつも、こうキーボードを叩いてるうちに、無数の思念が我の頭に浮かんできて、

 

 

 

これを思い出した次第です。なんでもやる気を待つ姿勢良くないな。

少なくとも俺にはやる気スイッチは存在せず、やる気エンジンは存在するのだろう。

やる気がなくてもちょっとはじめるのにも、

ただでさえ少ないやる気ゲージを使ってしまうから、

外部的要因(仕事とかね)に頼らずに、

うまいとこ己を動かすセルフマネイジメントしてゆきたいなと思ってるけれども、

なんかいい方法ないっすかね。とりあえず本でも探して読んでみます。

日ごろ感じるアレ的に習慣付ける、めんどくささを倒すことが課題な気がします。

文章も荒削りで、書いてることも何も無いに等しいのだけれども、(でも日記ってこんなもんじゃないですか)

「とりあえずブログ書いたよ???ん?????(お前も書けよ!!!)」

のポーズが取れるのでこれで良しとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

みんなブログ書いて!

*1:4月1日付けで無職となりました。祝って。