2023年とはなんだったのか
2023年とはなんだったのか。
こういう振り返りは、年が明ける前に過ぎ去りし日々と共にやるやつだと思うんだけどあまりにも年末年始寝正月ぶちかましてしまったので、こうして休みも終わる今筆をとっているわけです。
しかしながら、すぐに思い返してみれば記憶がほとんどないわけで、
カメラロールで振り返ってみて記憶を掘り起こしている次第に候。
写真をよく撮るマンでよかった。
意外といろんなことがあるもんで、振り返りすぎると長くなるので簡潔に。
1月
頭が狂っていたので、中原中也の墓参りしときてえなと思って、弾丸で山口県に行った。
結論行ってよかった。
なんていうか、「あの詩の舞台はここなんだな~」とか思うとものすごく感慨深かった。
「行きたい」「やりたい」「食べたい」とかそういった感覚はなるべく早く解消したほうがいいと思った。その気持ちがなんであれ、その次の感情につながるから。
2月
伊豆の伊東への旅。伊東にはすべてが変わらずにあった。
さすが文豪が愛した土地だけある。
旅情がまだ残っているコンパクト温泉タウン。食べ物もうまいし、街もいいしで最高。
3月
やっていた仕事の終わることになったので、現場から離任することになり、転職を決意。ようやく終わったんだって感覚。
新卒で入社した商社を一年でやめてから、「やり切ったな」感がずっとほしかったく、「役目の終わり」を肌で感じて終わらせたかった。
転職とかをもっと早めにすべきだっていうのは理解していたけどもこの「納得感」がどうしてもほしくて薄給にも拘わらず現場に長く居ついてしまった。
終わって思うのは「過去のこだわり」なんかあまり意味がないってことだった。
いやきちんと終わらせたからこそこれが言えるのかもしれないけどね。
またもや伊東に行き、疲れを癒す。
ということで、転職の準備へ。。。
4月
転活したところめでたく内定いただく。
職務経歴書とかそのへんは暇さえあれば作りこんでおくべきだね。
仮面ライダーとスラダンを観た。
仮面ライダーは泣けてくる感じだったね。
エゴンシーレ展示を観た。
5月
最終出勤日を迎えて、クソお世話になりましたとなる。
さよなら、さよなら、さよなら。
食堂で安く食えたカレーライスが妙に懐かしく思える。
6月
バケーションはじまる。
沖縄に行った、何も計画をしていなかったけど、雑に飲酒し、
思い付きで離島に行って波の音を聞いた。
とてもよかったので、またやりたい。
7月
18切符を使い、弾丸で福島に行く。
二つ震災関連の施設に行ったがどちらもよかった。
桃の食べ放題にも行ったが、夏場で温い桃というのは食べていて最高にうまいものではないから、冷やしてじっくり食うのが最高だなと思った。
8月
新会社入社。
特筆すべきこと…なし!
みなとみらいの祭りで音頭を踊った。
9月
労働
10月
労働
インターネット(ツイッター)の治安が悪くなってきた。
11月
金玉に異常事態発生。
精索静脈瘤という病だったことが発覚。
東京近郊はなぜか自由診療しかできなくて、手術代30マン近くかかるため、
保険適用ができる京都のクリニックへ行き、両玉の手術をした。
この時ほど健康保険に入っていてよかったと思ったことはない。
サカナクション(山口一郎)のライブを観に広島へ。
いろいろな思いが伝わってきた。
12月
手術の術後観察のため、再び京都へ…
人生を進めの助。
ざっと振り返ってみると、何もしてない一年かと思ったら
意外と転職に旅行と手術と色々やってたな。
どうりでお金が貯まらんわけだ。
2024年は資格取得するのと、
本業以外で1円でもいいから稼ぎたいな。
1/9から仕事なので気合入れていきます。
緊急事態宣言はされたが
緊急事態宣言が出されてしばらくたった。
4/6のプレ緊急事態宣言のち4/7の緊急事態宣言から
日々外出する人の数は減っていった。
居酒屋で店を開いている店舗はかなり少なく、軒並み店先に「5/6まで自粛します」と記載されて張り紙がしてある。
一方俺はというと、普通に出勤して働いている。
不要不急の外出、不要不急の労働。
仕事柄どうしても出勤しなくてはならないから、仕方がないとはいえ、
なんだかんだで人がいる電車に乗らなくてはならないのはやや気が重い。
今日はツイッターで流れてきた551の肉まんとエビシュウマイとあんまんを注文した。
たのしみだわ~~~~~~~~~~~~~~
自粛2週間の間で、ツイッターでは開催されなかった結婚式の引き出物が安く売られてたり、これまた開催されなかった物産展のなにやらが破格の値段で売られているURLをよくみかけるようになってきた。
ちょこちょこ行く居酒屋の店主が「コロナの影響で料亭、割烹が魚を仕入れなくなってるから、めちゃくちゃ良い魚が入ってくるw」と興奮してたけど、
最近、値崩れはしていないもののスーパレベルでもいい魚が手に入るようになって
影響を肌で感じている。
なんだかんだで、巣籠消費をするほかなく緊急事態2週間ほどになって、
俺個人としてはやや手詰まり?のような気分になってきている。
筋トレを洗練させるor何か新しい趣味or何かをはじめたい。
関係性の終わりについて
万物は流転するらしい。
思えば、去年の凍えるような寒さの中スーツに腕を通しもういちどはたらきはじめた。吹きすさぶ風に舞い散った桜と出会いも吹き抜けて、茹でタコになるのかってくらい暑かった熱帯夜も冷たいビールでやり過ごし、しとしとと降る小夜時雨を枕に夜長を過ごしていたら、気がつけばまたコートを羽織るほどに肌寒くなっていた。
そして除夜の鐘が鳴り響いた束の間に、新年も半月ばかりが過ぎている。
そう、確かに季節は巡っていた。
なんだかんだで働きはじめてちょうど1年、気持ちとしてはようやったなって思う。
振り返ってみて、心残りがあるかと言われれば、不思議なことにそれはない。
その時々にこれしかないって思える決断をときには怯えて、ためらいながらも
逃げたりはせずに向き合った。
けれども、人生ってそれで結果がともなうわけでもないんだね。
だから、いくつか切ない思いをすることもあった。
残ったいくつかの切なさのほかになにを得たかと言われたら、
個人的に大きな収穫は、内なる声のヒアリングがうまくなってきたことかな。
ということで、取りとめもない。2018年抽象ダイジェストでしたが、
今年もやっていきます。へい。
働き始めた2018
どうもまいるどです。
1月より無職を卒業し働き始めました。
だるいですがやっていこうと思います。
年末のシグナルについて
年を取るごとにそれぞれの季節のイベントが薄れゆく。
小学生の頃にはあれだけ待ち遠しかった夏休みも働き始めればその長さも短く、
結局のところスーツが汗ばむだけのげんなりする季節へと変化する。
心待ちにしていたサンタクロースの季節も今では赤い服を着た人の真実の姿に気がつき、彩られる街々にも資本主義の匂いを感じるようにもなっている。
年を経るごとにライフイベントをこなす毎にものの感じ方は変わってくる。
けれどもどうしてだが年末の感覚だけはいつまでも変わらない。
年末は師走の半ば頃からクリスマスのムードの影に隠れて少しづつ準備を整えている。
彼らは姿を中々には見せない時折、納期、忘年会、カレンダーなんかに時折尻尾を出しはすれども表だっては姿を見せないしそれに年末がちらついても帰路についてしまえば街々のイルミネーションがそびえたつツリーの装飾があまねく街々を光で照らしその華やかさなムードでそれをかき消してしまう。
イブの終わりに差しかかる頃なると年末感は待ってましたとばかりに顔を出す。
街の所々に謹賀新年のポスターがオフィス街の自動ドアの傍らには、
「前からいましたよ?」と言わんばかりの顔をした門松がいつの間にか置かれている。
そして売れ残ったチキンが半額になり始める頃には、
もうクリスマスは過去のものになって街は年末の空気に包まれている。
「ああ今年も一年が終わるんだ」
始まりのシグナルであるはずの正月道具に感じる終わりのシグナル。
物語の季節が終わりを告げてしまって僕らに共通なものなんて始まりと終わり、
とりわけこの終わる瀬戸際を振り返ることぐらいなんだろうなと思う。
この感覚だけは幼少期の頃と何も変わりがない。
商店街の門松の上に乱雑に乗せられた役目を終えたサンタ帽を横目にみる。
年々加速してゆくこの年末の中でもう残り少ない日数を指折り数えながら
終わりを迎えつつある今年という季節に想いを馳せたりしていた。
生活=生きる活動
無限に寝られるようになった無職は無限に寝てはいけないのである。
byじぶん
名言風の書き出しをしてみたかったのだ。
子供の頃に、歯を磨きなさいとか早く寝なさいとか挨拶をしなさいとか結構よく言われてそのたびに「うっせーな」と思っていたのだけども、いざ無職(風来坊です)になってみると、この大切さがよくわかった。
この習慣はもちろん学校、会社だったりつまりは外的な制約がある時も勿論大事なんだけれども、無職化(何の制約もなくなった時)すると、それが社会的ではなく己自身が人間的であるために非常に大切になってくるんだと思う。
一応、現在人類には時間なる客観的な指標があって、例えばそれは一年、一ヶ月、一週間、一日、二十四時間etcがあるんだけれども、そこには個別の意味は伴っていなくて、以前としてのっぺりとした膨大な塊なわけです。
想像してみてほしいのだけれど、全裸で草原に投げ出されたとして。ほんと途方に暮れちゃいませんか?
これに対処するためには最低限24時間という膨大な塊を少なくとも部分部分で分けることが出来るのが要は「生活」なわけです。
生活:歯を磨く、シャワーを浴びる、寝る、料理をする、食事をする、走る…etc
すごく当たり前のことかもしれれないけれど逆説的に生活があるからこそ人間になるといいますが、シェアハウスに来た当初は結構寝てばかりで、苦しい感じだったんだけど。そんな風にダメになっていく自分をぼーっと観察しながら色々と思っていたわけです。要は生活的考え無しに寝ることはいわば擬似的な死なわけで、そりゃ苦しいよねって
「生活」って「存在」みたいな用語めいてるけど改めて考え直すと
要は「生きる活動」なんですよね。はんぱねえ。
ここまで言っといて何ですけど、やっぱり無限に寝たい時があると言えばあるので寝ます笑
まあその時は仕方ない。でもそういう気分の時って何か肉体的、心理的問題があることがほとんどだよね。